子供のころにもらった言葉とその影響
今日は仕事が休みの日。
あれから退屈をなくす、暇を作らないことを心掛けて生活している。
おかげでいつもの休日は4時5時あたりに起きるも数時間ベッドでうだうだして10時過ぎにようやく起きだすというパターンだったが、今日はずっと早くから起きて活動できている。
朝早くから活動するのは気分がいい。
時間を使えているという幸せな感覚が得られる。
さて、今日は「子供のころにもらった言葉の影響について」をお話ししようと思う。
仕事で度々褒められることがある。
「仕事早いね」と。
こういう言葉をかけられるたび、わたしは非常に驚いていた。
なぜなら、わたしは自分について「どんくさくてもたもたしている人間」だと思っていたからだ。
子供のころからずっとそう思っていた。
そのため、高校・大学生の時にはアルバイトをしてみたかったけれど「自分みたいなものが社会に出てしまうと役に立つどころか逆に迷惑をかけてしまう可能性が高いので勉強だけしておとなしくしておいたほうがいいのかもしれない」と、せっかくの新しい経験を積める機会を自ら逃してしまったこともあった。
なぜわたしは長年「どんくさくてもたもたしている人間」だと思っていたのか。
それはごく小さなころからのある体験による。
わたしはとにかく運動が苦手であった。
そして体育などで運動している姿を見た人々(特に親族)からは常々「あんたはどんくさいね」と言われてきた。
保育園時代からずっとである。
そのためいつしか自分は動きがとろくてどんくさくてもたもたしている人間なのだなと自分自身を認識するようになったし、そのどんくささにコンプレックスを感じるようになった。
また、運動に関連することで大人になってからこんなことにも気づいた。
先述したようにわたしは子供のころから体育の授業が苦手であった。
「あんたは勉強はできるのに運動は全然だめだね」という言葉は幾度となくもらった。
そのため、自分は運動が苦手だし苦手だから体を動かすことも大嫌いだ、という認識を持つようになって20年余りを過ごしてきた。
しかし、大人になり体力の低下を認識するようになったため久しぶりに体をがっつり動かしたことがあった。
そのときわたしはとても楽しい、と感じたのだ。
そこでわたしは気づいた。
「わたしはただ体育の授業が苦手で嫌いなだけであって、体を動かすこと自体は結構好きなことだったのだ」と。
もし大人になって体を自発的に動かす機会がなければ、わたしは生涯「運動は苦手で嫌い」のままで身体を動かす楽しさを知ることもなかったであろう。
子供のころは周りの大人が正しく見える。
そのため、自分にかけられた言葉を何の疑いもなく受け入れてしまう。
そしてそれをその先もずっと持って行ってしまうのだ。
人間性も、行動も、思考もその時々の体験、経験によって変化していくし年齢とともに成長もする。(中には成長しない人もおられるが)
だから子供のころに言われたことが年を重ねても正しいとは限らないし、そもそも子供のころにかけられた言葉たちも「本当に」正しいのかどうかもわからない。
だが、正しいと信じて大事に大事に保管している。
これってすごく怖いことだと感じた。
わたしの事例でいうと、「どんくさい」ということが頭にあってコンプレックスにまでなったことで学生時代は勉強以外の経験を積むという選択肢をなくしてしまうことになった。
自分の行動に自信をなくし、おどおどするようにもなった。
学生時代、しっかりと体を動かすことができていれば今よりもっと体力があって強い体になっていたかもしれない。
言葉一つで、よいと思われる経験や健康、自信等多くのものを奪ってしまえるのである。
わたしは今、自分に対する評価の書き換えの最中である。
度々かけてもらえる肯定的な言葉をだいぶ信じられるようになってきた。
そして、仕事に対してある程度できるという自信を少しずつ獲得している最中である。
おかげで仕事を楽しいと感じることも増えてきた。
(落ち込むこともあるけれど)
かけられた言葉は自分が思っている以上に良くも悪くも影響する。
だが、その時かけられた言葉が正しいものなのか、その先もずっと適用するものとは限らない。
心を平穏に保つには、定期的に自分の人生を振り返ってあの時もらって今も持っている言葉は「本当に」正しかったのか、「今も」あてはまっているものなのか疑問を持って考えてみる必要があるのかもしれない。
最後に、わたしがはっとした友人のある言葉を紹介する。
「家庭も、学校も職場もみんなある意味宗教だからね」
今日も頑張ろう。