異世界より、まだ見ぬ故郷へ

子供のころにもらった言葉とその影響

今日は仕事が休みの日。

あれから退屈をなくす、暇を作らないことを心掛けて生活している。

おかげでいつもの休日は4時5時あたりに起きるも数時間ベッドでうだうだして10時過ぎにようやく起きだすというパターンだったが、今日はずっと早くから起きて活動できている。

 

朝早くから活動するのは気分がいい。

時間を使えているという幸せな感覚が得られる。

 

 

 

 

 

さて、今日は「子供のころにもらった言葉の影響について」をお話ししようと思う。

 

仕事で度々褒められることがある。

「仕事早いね」と。

 

こういう言葉をかけられるたび、わたしは非常に驚いていた。

なぜなら、わたしは自分について「どんくさくてもたもたしている人間」だと思っていたからだ。

子供のころからずっとそう思っていた。

そのため、高校・大学生の時にはアルバイトをしてみたかったけれど「自分みたいなものが社会に出てしまうと役に立つどころか逆に迷惑をかけてしまう可能性が高いので勉強だけしておとなしくしておいたほうがいいのかもしれない」と、せっかくの新しい経験を積める機会を自ら逃してしまったこともあった。

 

なぜわたしは長年「どんくさくてもたもたしている人間」だと思っていたのか。

それはごく小さなころからのある体験による。

 

わたしはとにかく運動が苦手であった。

そして体育などで運動している姿を見た人々(特に親族)からは常々「あんたはどんくさいね」と言われてきた。

保育園時代からずっとである。

そのためいつしか自分は動きがとろくてどんくさくてもたもたしている人間なのだなと自分自身を認識するようになったし、そのどんくささにコンプレックスを感じるようになった。

 

また、運動に関連することで大人になってからこんなことにも気づいた。

先述したようにわたしは子供のころから体育の授業が苦手であった。

「あんたは勉強はできるのに運動は全然だめだね」という言葉は幾度となくもらった。

そのため、自分は運動が苦手だし苦手だから体を動かすことも大嫌いだ、という認識を持つようになって20年余りを過ごしてきた。

しかし、大人になり体力の低下を認識するようになったため久しぶりに体をがっつり動かしたことがあった。

そのときわたしはとても楽しい、と感じたのだ。

そこでわたしは気づいた。

「わたしはただ体育の授業が苦手で嫌いなだけであって、体を動かすこと自体は結構好きなことだったのだ」と。

 

もし大人になって体を自発的に動かす機会がなければ、わたしは生涯「運動は苦手で嫌い」のままで身体を動かす楽しさを知ることもなかったであろう。

 

 

 

子供のころは周りの大人が正しく見える。

そのため、自分にかけられた言葉を何の疑いもなく受け入れてしまう。

そしてそれをその先もずっと持って行ってしまうのだ。

 

人間性も、行動も、思考もその時々の体験、経験によって変化していくし年齢とともに成長もする。(中には成長しない人もおられるが)

だから子供のころに言われたことが年を重ねても正しいとは限らないし、そもそも子供のころにかけられた言葉たちも「本当に」正しいのかどうかもわからない。

だが、正しいと信じて大事に大事に保管している。

 

これってすごく怖いことだと感じた。

わたしの事例でいうと、「どんくさい」ということが頭にあってコンプレックスにまでなったことで学生時代は勉強以外の経験を積むという選択肢をなくしてしまうことになった。

自分の行動に自信をなくし、おどおどするようにもなった。

学生時代、しっかりと体を動かすことができていれば今よりもっと体力があって強い体になっていたかもしれない。

 

言葉一つで、よいと思われる経験や健康、自信等多くのものを奪ってしまえるのである。

 

わたしは今、自分に対する評価の書き換えの最中である。

度々かけてもらえる肯定的な言葉をだいぶ信じられるようになってきた。

そして、仕事に対してある程度できるという自信を少しずつ獲得している最中である。

おかげで仕事を楽しいと感じることも増えてきた。

(落ち込むこともあるけれど)

 

 

かけられた言葉は自分が思っている以上に良くも悪くも影響する。

だが、その時かけられた言葉が正しいものなのか、その先もずっと適用するものとは限らない。

心を平穏に保つには、定期的に自分の人生を振り返ってあの時もらって今も持っている言葉は「本当に」正しかったのか、「今も」あてはまっているものなのか疑問を持って考えてみる必要があるのかもしれない。

 

 

最後に、わたしがはっとした友人のある言葉を紹介する。

 

「家庭も、学校も職場もみんなある意味宗教だからね」

 

 

 

今日も頑張ろう。

 

 

 

 

 

 

退屈と食欲

最近発見したこと。

わたしは退屈を感じると食欲が増すということ。

 

この1週間ほど退屈な日々が続いている。

少し前まで仕事の効率化がマイブームで自分の作業がもっと早く楽に終わらせられるにはどうすればよいかを延々と考えていた。

道具を見直したり、やる順番を見直したり。

そうして方法をいくつか編み出し実践しまたその結果を踏まえて新たな方法を考え出して、というのを繰り返していた。

 

わたしは効率的、能率的に物事を進めるのが好きだ。

そして改善も好きだ。

なので、自分の作業の進め方がどんどん良くなることに楽しみを見出して日々を過ごしていた。

しかし、どうもここのところ結果が出ない。

それどころか、自分以外の要因に左右される状況が多いことからこれ以上はどうにもならないのでは?という壁にぶつかってしまった。

 

わたしは長期的にコツコツと物事を積み上げていくことがおそらく苦手だ。

短期集中型でできる限り素早く決着をつけたい人なのだと思う。

だから効率的、能率的に物事を進めることに楽しさを見出すのだ。

そんな性質を持つので、ゴールまでの道のりが長いことやそもそも達成できない可能性が高いような状況に遭遇すると一気に熱が冷める。

 

こうしてわたしはマイブームが過ぎ去りただいま虚無の日々を送っている。

 

そんな日々の中、困ったことがある。

どうもおなかがすいて仕方がないのだ。

ブーム真っただ中のときは食えりゃ何でもいいし量もいらんと無駄にお菓子を食べることもなく、炭水化物に偏りすぎることもない比較的健康的な食事をとっていたのだが、ブームが過ぎ去り何もやりたいことがなくなると無駄に食べてしまうことが増えた。

 

要因としては、大きく以下が考えられるだろう。

 

やりたいことがなくなったために時間が無駄に余ってしまいそれを埋めるため。

燃え尽き症候群に似たことが起き、生活に対する意欲を失ったため。

またそのような心のエネルギーの枯渇を埋めるため。

 

 

 

 

時間がたくさんあることは幸せだとわたしは思う。

だが、そのたくさんある時間をただ流していくことは苦痛なことだと痛感した。

時間がある、そしてその時間をきちんと「使う」ということをしないと少なくともわたしの場合はメンタルが緩やかに悪化し食生活に悪影響を及ぼし身体の健康にも影響を及ぼすことがわかった。

 

ではどうしようか。

 

忙しくするしかない。

わたしは能率的なことが好きだ。

なのでその性質を利用してちょっと時間が足りないかも、というくらいの予定を1日の中に詰め込む。

そしてそれらを時間内にすべて終わらせるというゲームにするのだ。

 

この予定を考えるのも結構一苦労で練習が必要だなと感じているのだけれど、一番怖いのは「退屈だ、退屈だ」と嘆きながら同じ場所で何か心がワクワクすることがやってくるのをひたすら待っているだけの状況である。

 

進めるのなら進みたい。

 

だからこの先しばらくは忙しくなるように頑張ってみようと思う。

 

 

自分の強みとは

今日、2日ぶりにDSのどうぶつの森を起動させたら仲良しだったバニラちゃんが引っ越してしまっていた。

お気に入りの子だったので結構ショック。

次はどんな子がやってくるのだろう・・・

 

 

 

そんなことはともかく、ここ数日わたしは自分の心の中をのぞいていた。

今日のテーマは「自分の強みについて」

 

結論からいうと

わたしの強みは「思考する事」であり、その思考が誰かの人生を生きやすくする材料の一つになったら幸せである。

 

 

 

 

 

たびたび人生の道に迷うことがある。

日々を生きていると、自分とはどんな人間だったか、どんな価値観を持っていたのかといったことを私の場合は忘れがちだ。

そのため、道に迷うとわたしは自分の心の中を覗き込む。

それらを思い出したり新たに発見したりするための時間をとるのだ。

 

 

そのとき大いに役立っているのが以下の分析ツールである。

 

・ストレングスファインダー(本を買って診断を受ける)

・MBTI

 無料性格診断テスト | 16Personalities

 辛口性格診断16 ~あなたは誰と同じタイプ?~ (xn--16-573d25rtpd1v4e.com)

 

エニアグラム

 簡易タイプ診断 | 日本エニアグラム学会 (enneagram.ne.jp)

 性格診断で自己分析! (xn--9-j83b46n30cf18d.com)

 

・MI(多重知能理論) 

  多重知能の診断テストで、9つの知能(得意・不得意)を検査 | ホットニュース (HOTNEWS) (hotnews8.net) 

など。

 

科学的根拠はいかがか?というものもあるけれど、こういったツールは自分の性質を明確に言語化してくれるので今まであいまいだった自分の性質がよりはっきりと見えてくるので度々目を通している。

 

 

わたしの各種結果がこれだ。

<ストレングスファインダー>

 1.内省

 2.慎重さ

 3.学習欲

 4.分析思考

 5.収集心

 

<MBTI>

 INTJ(たまにINTP、ISTJと出る)

 

エニアグラム

 タイプ5(次点でタイプ6)

 (別名考える人と言われる)

 

<MI>

 1.内省(4.29)

 2.論理・数学的知能/言語・語学知能(3.71)

 3.音楽・リズム的知能(3.29)

 4.霊性・実在知能(3)

 5.博物的知能(2.71)

 6.対人的知能(2.43)

 7.身体・運動的知能(2.14)

 8.視覚・空間的知能(1.86) ()内は5点満点中のスコア

 

 

これらをみると根っからの「考える人」だなと思う。

確かに毎日何かしら考え事をしているし、自分の言動や感情を分析することも多い。

そしてこの内省という力のおかげで自分の感情をコントロールできるようになったり自分の言動や思考のエラーを改善することができ、結果として生きづらさというものをほんの少しずつではあるけれど取り除くことができているように感じる。

 

親との関係でもそうだ。

親とかかわる際の自分の思考や行動を分析・修正していく過程で良好な関係を築けるようになった。

自分にとっては非常に役に立つ力であると認識している。

 

では、他者に対してはどうだろうか。

正直成功体験が思い浮かばない。

 

たびたび知人から相談に乗ってほしいといわれる。

わたしの相談に対する基本的なスタンスは問題解決だ。

 

そもそもなぜわたしが自分の言動や思考を分析するかというと、よりよい自分に改善していきたいからだ。

そのために内省という力を使い、解決策がでるまで考え続ける。

 

しかし、少なくとも私がかかわった人々はそうではないらしい。

自分に対してやっている分析や思考をそのまま相手の問題に適用させても、「どうせ僕わたしはダメな奴だから、つらい…」で終わってしまう。

他者にとっては厳しいものなのだろうと思う。

徹底的に自分の言動や思考に向き合うし、自分のダメな部分をも直視して改善できそうなことか、できるならどうするかを考えていく作業だから。

 

他者の悩みというのは結局、その本人にしか解決はできない。

例えばその悩んでいる状況を底の深い穴に落ちている状態であると例えよう。

わたしはその落ちている人間に食べ物を与えたり穴から脱出するために使えそうな道具を与えることはできる。

だが、それを使うかどうかは本人次第なのだ。

 

 

他者に対しての働きかけによる成功体験はない。

だが、わたし自身は他者の思考に救われたことが何度もある。

 

わたしは悩んだとき、直接人に相談するのではなくネットで検索をして同じような悩みを持つ者を探す。

たいていブログがヒットするのだが、自分の価値観をよい意味で変えるような考えと遭遇することがある。

 

例えば、学生時代わたしは「普通」という概念について悩んでいた。

どうもわたしは普通からはみ出した宇宙人のような存在ではないかと感じていた。

そんな中あるブログに「普通とは所詮その集団の性質に依存するものであり、集団の性質が変われば普通の基準も変わるから絶対的なものではない」ということをもっとわかりやすく説明した記事があり、それをみてわたしは「普通とはどういうものなのか」を学んだのだ。

この学びが当時の心の支えになったことをよく覚えている。

 

思考も結局は自分の人生で経験したことから派生するものにすぎない。

そのためどうしても偏りが生じるし、見ることのできない視点もある。

それゆえ、他者の頭の中が我々には必要なのではないかと考える。

そして、わたしが経験したように他者の思考が時として誰か別の人を救うことができるのではないか。

相談として直接人とかかわりを持つことは得意でなくても自分の考えを頭の中から出すことはできる。

わたしの思考もどこかの誰かの人生が良い方向に進んでいくための材料になるのではないか。

 

 

常々思っていることがある。

それは、人や仕事に誠実で正直者が馬鹿を見ない世界になってほしい、そういう人間が報われる世界になったらいいということである。

 

どのような人間がここにやってくるのかわたしにはわからないけれど、その中には人生に悩み、それでもなんとか前に進もうと日々を懸命に生きている誠実で正直者の方たちが解決策を見出そうとやってきているかもしれない。

 

他者を救えるのはその本人だけだけれど、私の思考がそうした人の手助けの一部になったらいいと思う。

 

わたしが他者あるいは社会に対してできることって今の時点ではそれしかない。

 

 

そんなわけでブログタイトルがようやくしっくりしたものになりそうだ。

飽きっぽい性格ゆえまた変えるかもしれないけれど、当分はこれでいこう。

 

 

今できることを着実に。

 

 

軽蔑という感情との向き合い方

お盆も終わりですね。

この「盆」という言葉、実は略語であったことを最近知った。

正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」というらしい。

 

15日まで仕事が入っており休みなく働いていたが今日は休みをとることができ、父もまた今日まで休みというらしいので二人で祖母の墓参りに行ってきた。

ただ行って帰ってくるだけではあったがスーパー以外に出かけることもない身であるため良い気分転換になった。

 

先日も書いたけれど、実家に寄ると本当に親のありがたみというものを実感する。

ちょっとの心遣い、気にかけがとてもエネルギーとなって頑張って生きようと思えるしこの人の顔に泥を塗って井戸の中に蹴落とすようなことをしないよう誠実に生きていこうと思うのだ。

 

 

さて、今回のテーマは「軽蔑」について。

軽蔑という感情は自分にとっての当たり前を他人に押し付けることによって生じる感情ではないかという話。

 

 

わたしには明確に軽蔑という感情を生じさせる人間の性質というものがある。

 

周りの状況を見ずに自分勝手に物事を推し進めること

(図々しいともいう)

感情的でそれをコントロールできず周囲に対し攻撃的にふるまうこと

敬語を使えないこと

 

接客を担当しているのだが、日々多くの人間の言動を垣間見るにあたってこうした人間が自分の思っていた以上に多いという印象を受ける。

そして客のみでなく職場にもこうした人間が一定数存在し、もれなく周囲から嫌われていたり職場やチームのがんとなっているようである。

 

先日、そういう性質を持つ職場の人間に絡まれそうになった。

その人は感情的で常にイライラしている。

文句がたくさんあるようで人を捕まえては仕事中でもお構いなく長々と他人の文句を関係のない人間に八つ当たりのような形でまくしたてるのだ。

 

その日は週の中でも特に忙しい日ですぐに売り場に戻らなければならなかったため、また長時間拘束されては困ると思い相手の反応もそこそこに早口で会話を終わらせ非常に冷たく扱ってしまった。

話しかけられたとき、瞬時に脳が反応したことを実感した。

それは常日頃からその人間の言動を見て「軽蔑」の念を抱き勝手に敵だと認識しているからだ。

そして軽蔑しているからこのような人間にさく時間など無駄であるという思考が生まれ、冷たく雑な態度をとるのだ。

 

わたしはこの自分の思考と行動が非常に気になった。

後から振り返って自分と相手のやり取りを改めてみた時、自分の言動がなんと幼稚であるかと思ったのだ。

そうした相手の言動にいちいち反応し応戦しようとするような態度をとるなど結局は自分も同じレベルにいるのにすぎないのだと気づいた。

 

そして、反応しないようにするためにはどうすればよいか解決策を見出すためにそもそもなぜ軽蔑という感情が生まれるのかを考えてみることにした。

 

わたしが軽蔑の念を抱くのは上記に記した性質を持つ人間に遭遇した時である。

人が傷つくことを平気でするだとか、人が頑張っていることを笑いものにするといった性質も対象だが仕事上で特によく遭遇する性質というのがそれらなのである。

 

で、その共通点は何かということを考えた。

それは、「私にとって当たり前のことができていない」ということであった。

 

わたしにとっては

周りの状況を見ながらなるべく周囲の人間に迷惑をかけないように行動する事

感情をコントロールする事

例え年下であっても仕事上関わる人や店員などには敬語を使い丁寧に接する事

というのはごく当たり前に日々やっていることだ。

 

わたしはそれらができて"いないようにみえる"人間たちに対して「なぜこんな当たり前のことができないのか?」「だからダメなんだ」という判断を勝手にしていたのである。

 

人間は、その思考や行動に影響を及ぼす遺伝子の細かな発現から成育環境に至るまで全く同じプロセスで人生を歩んでいるわけではない。

当然、人によって自分の「当たり前」は異なるのだ。

もっといえば真に「これが正しい言動」だといえるものは存在しないのかもしれない。

けれど自分の人生しか知らないが故、そのことに気づかず「自分が正しい」と思い込んでしまう。

私は完全にそれだったのだ。

 

「自分が正しい」という驕り。

軽蔑という感情は今自分がそういう状態にあるということを教えてくれるものなのかもしれない。

 

 

軽蔑という感情に関して理解を深めた。

そういう性質を持つ人々とかかわるときに、これまでよりも客観的に自分の言動を見ることができるようになるだろう。

だが、脳の反応は思考よりもずっと速い。

その脳の反応のふり幅を小さくするためには客観的に自分の言動をみるだけでは不足しているように思う。

 

ではどうするか。

自分の行動に着目する。

私は行動と感情は密接に関連していると考えている。

急いでいるときに素早く体を動かそうとすればもっと焦るし、その逆もしかり。

 

わたしはそういう性質を持つ人間とかかわるとき、早く撤退しようとして早口になったり適当にあしらうような態度をとっていた。

反応するからそういう態度をあえてとっている。

ならばその逆の行動をとればいい。

あえてゆっくりとしゃべり、相手の顔をよく見て会話をする。

 

この「ゆっくりした動作」によって一呼吸置き脳が反応するタイミングを逃がしてあげればいい。

その上でなお嫌な感情が残るならば自分を客観的にみる行為に移ればいい。

これでいこう。

 

 

 

人生は修行だ。

いかなるときでも心の平穏を獲得することができるようになるための。

 

 

 

 

 

親というもの

昨日は実家に寄った。

私の家族は父1人。

兄弟もおらずもう長いこと父と二人でやってきた。

非常に仲良しというわけでもないけれど、私にとっては一生の恩がある大切な人である。

 

そんなわけで、一人暮らしを始めた時に互いの生存確認も含めて毎週日曜日はどんなに忙しくても仕事が休みでどんなに外に出たくなくても実家に寄って一緒に夜ご飯を食べると決めた。

 

それで昨日実家に寄った。

昨日は日曜日なので、仕事も忙しくさらに食材の買い出しもしてからだったので寄る時間が遅くなったのだが、実家に寄るとたいそう豪華な食事が用意してあって驚いた。

こじんまりとスーパーの総菜を一緒に食べながらテレビ見てという実家にいたころの日曜日かなと思っていたので。

 

驚いたし、ああ、親ってこういうものなんだなと感じた。

ありがたく寿司と肉をいただいて2時間くらい実家で過ごした。

 

子供のころ、たびたび遠方の親戚の家に遊びに行っていたころがある。

そのときも私たちが来るからというのもあったとは思うが、そこのおばさんがたくさんの料理を作って2台のテーブルいっぱいに料理が並ぶ光景がよく思い出される。

そして、その家にそこの成人した子供たちや奥さんらが帰ってきて一緒にご飯を食べるというのが習慣だった。

昨日はその光景を思い出した。

 

帰り際には余った肉やら食べそうな食材買っておいたから持っていけといろいくれてて、とても助かった。

 

そうして、実家を出て車を運転して家に帰るときなんだか父の言動を思い出して泣きそうになってしまった。

実家を出ると決断した時、そして実際に一人暮らしを始めた時にはあまりこういう感情はわかなかったのだが今になってなんだか涙を流したくなったのだ。

でもどのような感情によるものなのかはわからなかった。

悲しみではないし寂しさや孤独感でもない。

うれしさというのもしっくりこない。

 

近しいのは、親というものはこういうものなのかというのを痛いほど実感したからだろうか。

テレビなどで実家からいろいろ送られてきたといった話はよく聞くが、まさか自分も親からそんな風な心配というか心遣いというか、そんなことをしてもらえると思ってなかったのでなんだかとてもありがたかったのだ。

 

実家に来てくれるからと寿司やら肉やら用意してくれたり、ちゃんと飯食ってるかと私の分も幾ばくか食材を買っておいてくれたりそれがとてもありがたかった。

 

 

 

わたしは大学時代、自殺を試みたことがある。

子供時代のだいぶ早い段階から人間関係に躓き、不登校になったり情緒不安定な時期も続いた。

そのため自分は無能だと思っていたし、誰からも必要とされず自分が死んでも世界は問題なく回るのだからよいのだと思っていた。

そして父も、私がいなくなることで喪失感はあれど楽になるのではないかと考えていた。

 

そうして自殺を確実なものになるよう、また、できる限り周りに迷惑をかけないように事前にいろいろ調べた。

それでもやはりどうしても迷惑は掛かってしまうし何より遺体の状態が当たり前だが非常に醜いものになるのだと知ってしばらくはなんとか限界まで頑張ろうとしていた。

だが、自殺の実行というのは本当に衝動的なものであった。

あるときほんの些細な出来事でもうだめだ、遺体の状態とか周りへの迷惑だとかどうでもいいやという心持になりすんなり首をくくってあとは踏み台をけ飛ばすだけというところまで簡単に来てしまったのだ。

 

その時の光景はよく覚えている。

夏休み前の課題をやっている最中ふとすべてのストッパーが外れて体が動き出した。

よく晴れた日で、日差しが部屋の中に差し込みとても明るかった。

そんな中、自宅の部屋のドアノブに当時一緒に暮らしていた愛犬のリードをつないで輪を作り、その輪に首を入れてその様子を私の正面におすわりをしてみていた愛犬としばらく見つめあっていた。

 

そしてわたしは部屋全体を見まわした。

これから私は死に、夜仕事から帰ってきた父親がその遺体を発見する。

警察や消防・救急が自宅にやってきて遺体の調査が行われ父は警察から事情聴取を受けるだろう。

近所は騒然として見物人が出てくるかもしれない。

そうして葬儀が終わり、この家に一人父は生きていくことになる。

 

そんな想像が目の前に広がったときにふと自死遺族のブログを思い出した。

自殺を決意した時、残された者はその後どのような人生を送るのかということも調べてあったのだがそのときに見たブログを思い出したのだ。

それは、息子さんが自殺をされた方のブログで、亡くなって10年たってもいまだに心の傷はいえず息子さんのことを思いながら日々を生活していることが書かれていた。

 

10年。

長い月日だ。

おそらくこの方は自分が死ぬまで傷がいえることがないのだと私は思った。

そして父もまた、そうなのかもしれない。

どんなにできの悪い子どもでも実際にいなくなるというのはとてつもなく大きな喪失なのではないか。

10年後、20年後年老いて体も思うように動けない中、子どもの亡くなった家でたった一人背中を丸めて静かにくらしている父の姿が思いうかんだ。

そのとき私はこう思ったのだ。

私は普通の人生もろくに歩めず周りのように立派な親孝行すらできない人間ではあるけれど、最大の親孝行というのは社会的地位や高収入を得て親に高級な旅行やプレゼントをしたり楽をさせてあげるということではなく、ただただ親よりも先に死なないことではないかと。

これが子どもが親にできる最大の親孝行であり恩返しではないかと。

 

私が死んでしまえば、それまでにかかった莫大な養育費や時間が全部パーになるのだ。

そうなったら彼の人生はなんだったのか。

そう思ったのだ。

こんな経緯でダメな人間でも生きようと考えなおすことができ今も生きている。

 

 

これから先どうなるかはわからない。

だが、現時点ではあのとき死んでしまわなくてよかったと思う。

あのとき死んでしまっていれば昨日の出来事は知らなかったのだから。

また、その後学んだこともある。

生きているだけで意外と親の役に立っていたんだなということ。

人がいるという存在感は安心につながっている。

ごはんを作ったりパソコン操作や公的機関の手続きなどの手伝いなど、どうやら非常に助かっているようだということも知った。

生きていること、親より先に死なないことが最大の親孝行だという私の考えは間違ってはいなかったことがわかった。

 

私は幸せだ

 

そんなことを思いながら帰路についた。

 

 

 

 

 

仕事ができない人?

暑い日が続いている。

この時間は真昼間に比べたら涼しくて頭もすっきりしているので貴重な時間だ。

 

さて、最近少しイラっとすることがあった。

それは、自分よりも仕事ができないと感じる人々の言動についてだ。

 

なぜ今それをやるのか、なぜそんな非効率的で必要のないことをやっているのか、自分の仕事は簡単に人に任せるが人から任された仕事には言葉を濁して不機嫌になったり文句を言うのか。

 

仕事中このような人々に遭遇することで心が乱れてしまうなと感じたのでなぜこのイラっとする感情が湧くのかを考察してみた。

 

結論としては、他人の仕事ぶりがどうとかいうことではなく自分の承認欲求のためであると考えた。

 

つまり他人の言動に原因があるのではなくて自分の承認欲求が満たされていないことによる心の渇きから他人の言動を引き合いに出しイラっとする感情を作り上げているということだ。

 

自分よりも仕事ができないと感じる人にイラっとする。

そこにはこんな欲求がある。

 

この人たちよりもずっとまっとうに仕事をこなし、作業の目的を考慮した効率的な進め方を実施し数値的にも実績を出している。

また、手抜きをする人や非効率的な動きをする人のフォローにもまわり、人員不足の中残業をして早く帰る人たちの分まで仕事をこなしている。

だから、こういった人たちよりももっと評価されて当然だし、評価してほしい。

なぜしてもらえないのか、私の働きぶりを周りはどの程度理解しているのか?

という承認欲求である。

 

これに加えて、わたしにはそのコミュニティの中で優秀な人間になりたいという意志が強く、日々優秀な人の行動を見てもっと円滑に進めるにはどう動けばよかったか、どうすれば正確さを低下させずに作業スピードを上げることができるかといったことを考えながら仕事をしている。

自分に厳しいのだ。

そのため、その自分を見る目というものをそのまま他人にも使っている可能性が高い。

だから余計に非効率的で楽したいがための行動に反応してしまうのであろう。

 

では、ここで考える。

わたしは本当に、もっと評価されるべき人間であるのか。

わたしの承認欲求は適切なものであるか。

 

 

職場にとても仕事のできる優秀な人間がいる。

これはわたしの主観ではなくて、上司やほかのメンバーからもそのように認められている本物の優秀な人だ。

 

その人をみていると、その圧倒的な仕事ぶりで周りと大きく差をつけ周囲が評価せざるを得ない状況を作っているということだ。

本当に評価されるべきという人は自然とそうせざるを得ない状況を作り上げ、評価を望んで獲得するというよりもその仕事ぶりに評価が勝手についてくるのである。

 

そして、わたしはまだまだそこにたどり着けていない。

結局わたしもまだまだ仕事のできない人間なのである。

 

よって、私の弧の承認欲求は不適切であり、傲慢な欲であったといえる。

ではこの承認欲求を解決するにはどうすればよいか。

 

それは、他人の仕事ぶりに目を向けることなく自分の仕事ぶりに注目し周囲がこの人は自分やほかのメンバーと違うなと思わざるを得ない働きの習得に邁進する事。

ただ、そうはいっても非効率的な動きをするわ自分が楽したいがために仕事を押し付けたり文句を言う人にニュートラルな感情はまだ持てないのでその対策としては彼らの言動を常々予測しながら自分の行動計画を立てるようにしようと思う。

この作業は面倒で時間がかかるからわたしに押し付けてくるな、だからこういう動きをしよう、この人は今必要な作業ができず別の作業をやってしまうからわたしが動こう、といった具合に。

 

ついつい、またこの人はずるをしようとしているな、なぜ今見当違いのことをやっているんだろうと感情的に反応しがちだ。

けれど重要なのはそうした反応をして他人をこういう人だと判断することではなくていかに作業が円滑に進むかどうか。

わたしは、そういう人たちの行動を考慮した自分の仕事の進め方の身に集中すればよい。

 

 

心の乱れの原因が明確になり、解決策もできたので再び心の平穏が訪れた。

 

 

 

だから

暑い

特に何があったというわけではないのだけれど。

暑くて何にもしたくない。

だけどただひたすらに時間だけが過ぎていくのも嫌だなあと思って書いている。

 

最近何があったっけな。

そうそう、コロナの影響なのか、コロナは関係なく何か別の要因で職場の利益が低迷しているのかは末端の人間には情報がやってこないのでわからないが来月のシフトが大幅に減らされている。

わたしだけでなくほかの人もみんなそうらしい。

 

ちなみに今月も、先月より減らされていたがまだ許容範囲内だった。

しかし来月はちょっときついぞ。

これが短期的なもので、何か利益向上を目指す戦略を持っているのかどうか、それとも長期的なやり方になるのかすらわからないので職場を変えるかどうか悩みどころである。

 

短期的な方針であり何かしらの戦略があるのであればまだ見込みはあるけれど、そうでないなら今の職場に執着する理由もないのでもう少し条件の良いところを探す必要がある。

 

今月は引っ越しの準備にいそしんでなかなか気が休まる日もなかったがまた新たな試練がやってこようとしている。

 

だけど動揺しないことにした。

なるようにしかならん。

幸せを願って全力で人生を駆け抜けても思い通りにはいかないものだし、それで一喜一憂して心が乱れるくらいなら幸せが欲しいという欲を捨てればいい。

そして流れに身を任せる。

 

いろいろとやらなければならないこと、調べること、考えること、やりたいことと山積みの状態なのだけれどまずは引っ越しを終わらせて生活を落ち着けることが第一。

生活が一段落して少し休息してから一つ一つ片づけていく。

 

 

 

それはそうと、引っ越しの準備をしていてすごく思うのは、外部からの電話がものすごく多くなって憂鬱だなということ。

必要だから仕方がないのだけれど、メールで済むならメールがいいなあ…と思っている。

 

わたしは電話が嫌いだ。

なぜなら時間と身体的拘束があるから。

身体的拘束というのは、私個人の場合電話をしながら何か別の作業をするという行為ができないので電話の間ずっと手持無沙汰で話をしたり聞いたりしているのだけれど相手の話が長くて興味がない場合ものすごくこの身体的拘束感が苦痛なのだ。

そしてもちろん時間もとられる。

電話の最中だけでなく、一度電話があって出られなかった場合たいていまた電話するという留守電が入っているのだが何時ころに折り返しをしてくるのかということが一切ないので電話が来るまでの間ずっとスマホを気にして待っていなければならない。

 

わたしは一人でゆっくり過ごす時間を非常に大切にしているので、家にいるときは基本的にお休みモードに設定して電話やメールの通知が一切来ないようにしている。

そのため電話が来ても気づかず出られないことがほとんど。

メールであれば気づいた時に確認して、自分の時間に一区切りがついた時に返信をすることができるのでストレスはほとんどないが電話はこの比ではない。

 

今は少し落ち着き始めたが、いろんな業者から商品の勧誘を含めたいろんな電話がくるので気がめいっていた。

 

 

この件で改めて思った。

わたしはつくづく拘束されるということが大嫌いなのだなと。

 

この前テレビでリモート同棲というものがはやっているという情報を聞いたけれど、1日中電話やラインでつながっているなんてわたしには無理な世界だと感じた。

人とのつながりももちろん大事だけれど、完全に一人になって休息したり考え事をしたりする時間が1日の中でも十分確保できていないとわたしの心身はおかしくなるだろう。

 

拘束されることとはまた違う話かもしれないけれど、このリモート同棲に関連して。

わたしは他人と多くの時間を過ごすこと自体も好きではない。

他人と多くの時間を過ごすと良くも悪くも影響を受ける。

攻撃的な人、極めて自己中心的で迷惑をかけられる人と入れば当然悪い方に影響をうけて不調になる。

また、自分に対して肯定的な人であっても今度はその態度がいつまで続くのだろうかという疑念が頭の中に生まれる。

そして、少なからずその肯定的な態度が長く続いてほしいという欲を持ち、無理をしたりしてしまう。

わたしはこの欲を持ちたくない。

欲を持っているその状態が苦しいからだ。

なのでよい人であっても多くの時間を過ごしたくはないと思ってしまう。

人と会った後は一人になって、一旦心をリセットしたい。

心をニュートラルな状態に近づけて、また次の日に頑張るのだ。

 

 

そんなわけで、引っ越しが落ち着いたらちょっと数日全く人とかかわらないで休みたいなあと思っている。

9月くらいになりそうかな。

来月の希望休もう出しちゃったから。

 

 

海の見える、人の往来がまったくない場所に小さなログハウス的なものを立てて、疲れたらそこに引きこもりに行く生活が夢だ。