異世界より、まだ見ぬ故郷へ

欲について

暑い日が続く。

太陽が暑くてまぶしすぎるし、肌は小麦色に日焼けする。

まるで人間たちはトースターでじっくりとこんがり焼かれた食パンみたいだなと外に出るたびに思っている。

 

暑くてあらゆることに対する気力が低下しているのでただ無目的にベッドでyoutubeをみているだけという日が続く。

けれどそれも目が疲れてくるし、ふと自分は何をやっているのかという自問が定期的にやってくるのでそんなときは本を読んでいる。

 

十角館の殺人を読み終えてからは小説はしばしお休みをして、今は野矢茂樹氏の「論理トレーニング」を少しずつ。

そういえば本を読むのもまあ目が疲れるか。

でも、本は読んでいるときその世界に入れることが魅力で、知識を得るだけでなく有意義な現実逃避のツールでもあると思っている。

暑さによる気力の低下という現実から逃れたいのだな、わたしは。

あと将来の不安。暇な時間があるとろくなことを考えない。

 

さて、文章を読むというのは面白い。

思えば大学時代、グループワークでチームでレポートや発表資料の作成などをよく行っていたがそのときも他人の書いた文章を読んで文と文のつながりの不自然さを見つけたりするのが面白かったなあと思いだした。

 

この本にもさまざまな文章が登場するが、文の構造をみたり、それを分析するための知識を学ぶのが面白くてこの先しばらくはマイブームになりそうだ。

 

 

 

 

わたしは物欲が一般的な人間よりも少ないと思っている。

女性だけれどおしゃれや美容というものにも興味はほとんどないので服や美容品もほとんど買わない。

半年から1年に1回程度ある美容ブームが来た時にちょこっと買うくらい。

あとはおしゃれというよりも寒さ、暑さ対策や穴が開いたなどの理由でやむを得ず衣服類を買う程度。

機能性が大事。

 

ブランド品にも興味がない。

以前ネットで、ダサい服でもイケメンが着ればそれ相応に見えるという画像を見たのだが、そのときにいくらブランド品で着飾っても元がダメならダメなままだし元がいいならどんなに安いものでも上質なものに見えるのだと感じた。

つまり、ブランド品をわざわざ持ったところで自分の価値は高まらないし無意味だという認識を持った。

ネットで見た画像は容姿にのみフォーカスされていたが、わたしのいう元っていうのは容姿だけでなく内面やそこからにじみ出る立ち振る舞いなども含めてね。

 

財布なんてもう10年以上同じものを使って買い換えていない。

だってきれいなんだもの。

最近は少し皮がはがれてきたけれど、そんなに乱暴に使うものでもないから壊れることも、見栄えが極端に悪くなることもないのでわざわざ買い替える必要がないのだ。

 

 

わたしは物欲が少ない。

けれどすべてのことに対して欲がないわけではない。

 

わたしの中で大切な欲のひとつ。

知識欲。知的好奇心。

 

昔から「なんで?」を多用する子どもだった。

数学なんかやると、公式しか載ってないけど本当にこうなるの?どういう仕組みでこの定理は成り立っているの?などと疑問が次々出てきてそれを納得するまで調べる。

わたしの頭では難しいので1日では解決しないことのほうが多く、もやもやしたまま数日過ごす、なんてこともしょっちゅうやっていた。

受験という観点から見るとかなり非効率だった。

 

けれど発見する喜び、知る喜びもおかげで知っている。

今わたしは学生時代大好きだった学問を再び勉強しなおしている(ここ2か月くらいお休み中なのだけれど)が、きっとこれからもずっと何かしら勉強したいと思っているし少しずつ学び続けるだろう。

 

本を読むことも結構好きだ。

本はその時々の自分の状況や思考の変化によって読んだ後に感じることや考えることも変化するのでもう読まないだろうなという本でもまた新たな発見があるからなかなか捨てられない。

ものは極力持たない主義だから置き場所云々悩みどころではあるけれどとりあえずはいいかなと思っている。

 

自分の興味のあることに時間とお金を使う。

それがある人にとっては美容に関することだし、ある人にとってはブランド品であり、ある人にとっては車である。

そしてわたしにとっては本やネット(色々調べたい、すぐ忘れるけれど)、経験なのだ。

 

本が読めて、心の平穏が保てる休息の場所があって健康である。

めちゃくちゃ幸せね。

 

 

 

 

 

十角館の殺人

この前の土曜日、仕事が休みだったのでかねてより読みたいと思っていたにもかかわらず本屋に行くたびに買うのを忘れて次こそは買うのだと誓っていた綾辻行人氏の「十角館の殺人」をようやく購入し、読み終えた。

 

意外と分厚かったので予定としては数日に分けて少しずつ読んでいくつもりだったが、結末がどうなるのか非常に気になってしまい結局1日で読み終えた。

 

もともとこの本を読みたいと思っていたのはなぜかというと、どんでん返しがすごい物語としてネット上で頻繁に名前を目にしていたからだ。

 

子供のころから刑事ドラマや二時間もののサスペンス・ミステリーを視聴していた者としては一般的なものでは物足りなくなっており、単純に事件が起こりそれを調べ犯人にたどり着き自供させるというものではなく終盤に大きく局面が変わるような物語に興味があったのだ。

 

そうしてまんまと騙された。

わたしは中村青司が生きている説と、物語のキーパーソンの一人である中村千織に集まったメンバー以外の恋人がいてその恋人が外部から十角館に侵入し復讐殺人を実行した説を考察していた。

物語では集まったメンバー内に犯人がいるかもしれないという疑心暗鬼な状況になっていたし、この状況になることは十分予測できることだったのでまさかこの中にはいないだろうという思い込みによって完全に上記2つの説しかみえなくなっていたため、終盤の展開に衝撃を受けた。

 

そして、犯人の執念深さと計画性がすごいなあと。

けれどきっと、犯人はこの殺人を行ったことで心により大きな喪失感を持つことになったのではないかと思った。

 

プロローグで彼は復讐を誓い、その良否は海にゆだねてその計画を記載した紙の入った瓶を海に投げた。

そして、エピローグ。

すべてが終わった後、彼は海で恋人であった中村千織を思いその名前を心の中で何度もつぶやくのだけれど彼女の姿は現れなかった。

そして、プロローグで海に投げた瓶が彼のもとに戻ってくる。

 

この描写を読んでわたしは、この瞬間彼は復讐を遂げたことに何の意味もなかったことに気づいたのではないかと思った。

 

彼女が亡くなってから長い時間をかけて綿密に計画を立て、きっとこの復讐が成功すれば自分も彼女も報われると信じていて、それゆえに心に生じた喪失感もより大きなものとなった、プロローグとエピローグからはそんな心の動きを私は感じた。

 

 

大切な人が直接でも間接的にでも誰かのせいによっていなくなってしまった経験がないので実際自分がこの立場におかれたときにどんな感情を抱くかはわからない。

そんな境遇の中での考えはきれいごとのようだけれど、本当の意味での復讐ってこの悲しみをたとえ数十年とかかっても自分の力で乗り越え、心の平穏を取り戻すことではないかとわたしは考える。

しんどいと思う。

けれど怒ったところで、憎んだところでうまくいくやつはどうやってもうまくいく。

世の中ってそういうものだ。理不尽で不公平。

もちろん法的に制裁を加えられるのならば戦うべきだと思うけれど、今回みたいな法的措置に問えるかどうかという場合には、残った者の心の平穏が取り戻され記憶の中で故人とともにささやかな幸せの中を生きることが故人も残された者も報われるような気がする。

 

 

 

ともあれ、やっぱり叙述トリックものはおもしろいね。

自分の考察が見当違いで思わぬところに真実が存在していたことに気づいた瞬間のアハ体験的な脳の感覚。

また今度何か探して読んでみようと思う。

 

 

 

 

砂の女

先日安部公房氏の「砂の女」を読み終えた。

 

趣味の昆虫採集をするために砂丘に出かけた男が、その砂丘の底にある家に村ぐるみで閉じ込められる話。

 

 

 

男の心理描写や物語の進み具合がわたしには少々まどろっこしくて終盤は結構とばしとばし読んでいたので理解がずれているかもしれないけれど、これを読み終わったとき真っ先に頭に浮かんだのはスタンフォード監獄実験だった。

人は与えられた役割に合わせて行動するようになる。

それから次に浮かんだのは学習性無気力。

 

 

この男も閉じ込められた最初は激しく抵抗し、いかなる手を使ってでもその家、そして村からの脱出を試みていた。

しかし、物語終盤大変な労力を使ってようやく家からは脱出できるも結局村人たちに捕まり、再び家に戻されてしまう。

そして、そのままその家での月日が経ち、あれほど脱出に執着していたものがその脱出の方法はまた翌日にでも考えればよいという思考に変わってしまったのだ。

おそらくこの男は、もう必死になって脱出方法を考え実行に移すことはしないだろうと私は思った。

 

陽が差し込むため猛烈な暑さ、水は満足に与えられず砂の底に閉じ込められその砂による家の倒壊を防ぐため望んでいない砂かきの労働を強いられる。

劣悪な環境。

そんな環境の中自分の置かれた境遇に必死に抵抗し、なんとかそこからこれまでの人生に戻ろうとするもそれも叶わないことが分かった。

 

水も満足ではないが定期的に配給される。

少々不本意ではあったが男手が必要とされる自分の仕事もある。

女もいてその女とも関係性ができてきた。

こんな生活も悪くないか。

 

脱出に失敗したあとの男の生活ぶりから、私はこんな心理を感じた。

この村、この家での環境から逃れられないと学習し、元の人生に戻ることをあきらめ、自分に与えられた今の役割に「適応」したんだな、と。

 

そしてこの適応こそが人間の優れたところもあるが、同時にこわいものでもあるということが意味として込められているのではないかと考えた。

激しく抵抗していた環境、境遇に支配され一人の人間がじわじわと「適応」していく姿をじっくりと描写しているようにみえる。

自分で選択したように見えて、実は支配されている。

それが本人にはわからない。

 

 

 

この物語に限ったことではない。

現実でも、例えばブラック企業に長年勤めているうちにそこでの生活や規則に適応し、それが普通で当たり前のことであると思い込むようになり自分から抜け出そうという意思すら失われてしまうといったことがある。

 

心身がおかしくなりそうなほどの環境、時間、たまのご褒美、抵抗の末の敗北。

これがあれば人間は簡単に支配されるのだというこわさを感じた。

 

日常を生きていると目の前のことをこなしていくのに精いっぱいで、自分の人生について振り返ったり立ち止まって考えたりする機会が意外とないように思う。

だからこそ、今いる環境が本当に自分の意思で選んだものなのか、自分にとって正しいものなのか、当たり前とは何か、どこに進んでいきたいのか、そういったことを思考する時間を作らなければならない。

 

そう思える物語だった。