異世界より、まだ見ぬ故郷へ

砂の女

先日安部公房氏の「砂の女」を読み終えた。

 

趣味の昆虫採集をするために砂丘に出かけた男が、その砂丘の底にある家に村ぐるみで閉じ込められる話。

 

 

 

男の心理描写や物語の進み具合がわたしには少々まどろっこしくて終盤は結構とばしとばし読んでいたので理解がずれているかもしれないけれど、これを読み終わったとき真っ先に頭に浮かんだのはスタンフォード監獄実験だった。

人は与えられた役割に合わせて行動するようになる。

それから次に浮かんだのは学習性無気力。

 

 

この男も閉じ込められた最初は激しく抵抗し、いかなる手を使ってでもその家、そして村からの脱出を試みていた。

しかし、物語終盤大変な労力を使ってようやく家からは脱出できるも結局村人たちに捕まり、再び家に戻されてしまう。

そして、そのままその家での月日が経ち、あれほど脱出に執着していたものがその脱出の方法はまた翌日にでも考えればよいという思考に変わってしまったのだ。

おそらくこの男は、もう必死になって脱出方法を考え実行に移すことはしないだろうと私は思った。

 

陽が差し込むため猛烈な暑さ、水は満足に与えられず砂の底に閉じ込められその砂による家の倒壊を防ぐため望んでいない砂かきの労働を強いられる。

劣悪な環境。

そんな環境の中自分の置かれた境遇に必死に抵抗し、なんとかそこからこれまでの人生に戻ろうとするもそれも叶わないことが分かった。

 

水も満足ではないが定期的に配給される。

少々不本意ではあったが男手が必要とされる自分の仕事もある。

女もいてその女とも関係性ができてきた。

こんな生活も悪くないか。

 

脱出に失敗したあとの男の生活ぶりから、私はこんな心理を感じた。

この村、この家での環境から逃れられないと学習し、元の人生に戻ることをあきらめ、自分に与えられた今の役割に「適応」したんだな、と。

 

そしてこの適応こそが人間の優れたところもあるが、同時にこわいものでもあるということが意味として込められているのではないかと考えた。

激しく抵抗していた環境、境遇に支配され一人の人間がじわじわと「適応」していく姿をじっくりと描写しているようにみえる。

自分で選択したように見えて、実は支配されている。

それが本人にはわからない。

 

 

 

この物語に限ったことではない。

現実でも、例えばブラック企業に長年勤めているうちにそこでの生活や規則に適応し、それが普通で当たり前のことであると思い込むようになり自分から抜け出そうという意思すら失われてしまうといったことがある。

 

心身がおかしくなりそうなほどの環境、時間、たまのご褒美、抵抗の末の敗北。

これがあれば人間は簡単に支配されるのだというこわさを感じた。

 

日常を生きていると目の前のことをこなしていくのに精いっぱいで、自分の人生について振り返ったり立ち止まって考えたりする機会が意外とないように思う。

だからこそ、今いる環境が本当に自分の意思で選んだものなのか、自分にとって正しいものなのか、当たり前とは何か、どこに進んでいきたいのか、そういったことを思考する時間を作らなければならない。

 

そう思える物語だった。